この記事は、いまこのテキストを書かなければならないと思いつつ、何から書いたらいいのかわからなくなってしまった僕の長い日記だ。読んでも特に得られるものはないと思うので、何かに期待している人はそっとページを閉じてほしい。
1/見送った日
近頃の年末は義実家で餅をつくのが恒例で、今年で 5 回目を迎えた。朝から準備して、多いと 8 臼もついたりする。 4 歳になった娘も餅つきに参加するようになり、義実家で 1 人コミュ障を発揮している僕を助けてくれる。
— 𝒾ᦔꫀ (@_ideyuta) December 29, 2019
娘の幼稚園でも餅つきがあり、ひとクラス 3 人のおとうさんが餅をつく係として立候補する仕組みになっている。経験者だからね!と妻は言い、一番目に名前を書いていた…まあいいんだけれど…
朝 8 時から娘を連れて幼稚園へ行き、ガッコンガッコン餅をついた。餅をつくのにあまり力を入れすぎると餅が切れてしまうのでダメなんだけれど、みんな知らないので思いっきり餅をつく。めちゃくちゃ力一杯に杵を振り下ろす。みんな屁っ放り腰なのであとで身体が痛くなったはずだ。数年前のぼくもそうだったので、この感想には老害感があるなあと書きながら思う。
2019年の餅つき
年始の集まり
年始には母方の実家で兄弟や従兄弟たちとご飯を食べるのが恒例になりつつある。数年前までは疎遠になってしまっていたけれど、最近はまた集まりはじめているのだ。 兄弟と従兄弟たちは近い年頃に分布していて、1988-1997 くらいの間に 7 人いる。何人かは結婚し、揃ってくるものだからそこそこの人数になっている。
おじいちゃんに甘える僕と弟と従兄弟
中学に入るぐらいまではよく遊びにいき、夏は川で泳いだりマスを釣ったりとめちゃくちゃに遊んだ記憶がある。でもまあ、自分たちも従兄弟たちも中高生で思春期真っ盛りだったし、高校に上がったくらいからは滅多に親戚との交流には参加しなくなっていった。
MMO とインターネット
ぼくの高校時代のほとんどは MMORPG とインターネットだった。いや、ちゃんと高校にも行っていたし、運動部もやっていたけれど、深夜までゲームとインターネットをして、授業中に寝ていた。
いろいろとやったけど、はまりこんでやっていたのは DJMAX とマビノギくらいだ。昼飯代を削ってコンビニでウェブマネーを買ってファンタジーライフを謳歌していた。
DJ MAX
DJ MAX は、というか当時のオンラインゲームのほとんどは、韓国産のゲームで、マビノギを裏で立ち上げながら AFK して DJ MAX をやっていた。 探したら YouTube に結構残っていたけど、PSP などで販売されたものが多く、2005-6 年当時にやっていたオンラインゲームの動画はほとんどなかった。
この辺りはめちゃくちゃにやった記憶がある。
まだ指が追えそうなくらい、キーの流れてくる配置を鮮明に思い出せる。 7keys はむずすぎて投げ出した記憶がある。
DJ MAX は 2008 年にサービスが終了している。久しぶりにやろうと思って探したときには本当に絶望した。
マビノギ
マビノギは 2004 年からサービスを開始しているサービスで(まだ続いている!)、僕も高 1 の夏から β テストに参加して 3 年間やり続けた。
https://mabinogi.nexon.co.jp/guide/introduction.asp
マビノギには高校の 3 年間を費やしたけど、マジメにファンタジーライフしていたのは 1 年半くらいで、後半はほとんどチャットツールとして楽しんでいた。毎週年齢が上がり成長していくキャラクター、3 週経つと転生で若返ることができるので、転生して各々好きな年齢のキャラクターを維持していく。自由自在に設定できるアバターと装備は、当時の MMO の最高峰だったと思う。
とある夏の日
マビノギはゲームシステムも世界観も最高なんだけど、BGM も凄かった。HanStone の曲をゲームデータからぶっこぬいて iPod にいれていたのが懐かしい。
当時使っていたパソコンがもう存在しないので、スクショなどがほとんどなかった。ログインを試みるも、アカウントがわからなくなっていた。
あの頃の MMO には、おじさんもいっぱいいたけど、同じくらいの年代の高校生もたくさんいた。 静岡にいた僕はリア友のひとりと一緒に岐阜のネトゲ仲間に会いに行き、その足で石川のネトゲ仲間に会いに行った。工業高校とか、高専とか、根暗なやつが集まってはしゃいでしまうアレだった。
オフ会
若い、、若すぎて死ぬ、、
スマホゲームにはないあの居心地は、たぶんもうどこにもないのだろうな。
ホームページ
ゲームがチャットツールに成り果てていた頃、僕はホームページ作りに熱中していた。メモ帳で html を書いて FFFTP でレンタルサーバーへアップロードする。ninja や geocities は無料では広告が入るんだけど、ゲームにお金を突っ込んでいた僕に鯖代を払う余裕はなかった。
そんな中で、当時は個人が建てたレンタルサーバも数多くあり、その中のひとつである whss.biz というサーバの無料枠に応募し、使わせてもらうことができた。今やそのレンタルサーバーも存在しないけど、僕のコンピューターを使ったものづくりはここがスタートラインだった。
家族との時間
自分で何かを作りたい欲求に突き動かされて、18 になった時に進学と同時に家を出た。
それからは年に一度寄るくらいで、泊まりもせず、ほとんど実家に帰らなかった。結婚して長女が生まれた 2015 年くらいから、ようやくしっかりと年末年始に帰省するようになった。親戚にも顔を出したり、実家にも泊まるようになり、母も娘たちを可愛がり嬉しそうだった。
家を出てから 10 年がたった 2017 年の春、母が癌の手術をした。
2 年の闘病を経て、2019 年の夏を迎える前に亡くなった。
2019 年の年始は、昔のように兄弟と従兄弟たちみんなで集まった。生後 2 ヶ月の次女にみんな癒され、3 歳の長女は妹の彼氏にあそんでもらっていた。地方紙に載ったマス釣りのときの写真を眺めながら、みんなで笑った。母もまだ元気で楽しそうだった。
2/デザイナーになった日
2007 年の春、大学進学をきっかけに家を出た。工業高校の進路は、98%くらいが就職で、ぼくも 3 年になるまでは就職する気しかなかった。 でも、いざ就活がはじまるとなったときに、自分の本当にやりたいことはこの中にはないと思ってしまった。
インターネットに触れ、ゲームで知り合った人と仲良くなり、個人が立てたレンタルサーバーにホームページの掲載申請を送っていたあのときに、やりたいことはこれではないけど、なんなのかもわかっていなかったあのときに、インターネットでなんか面白いこといろいろできそうだし、かんたんに入れそうだしな、と推薦で入れる大学にぼくは進学してしまった。
何も考えてないやつ
狂ったような制作の日々へ
高校で電子工学を専攻していたぼくが、デザイナーという仕事をすることになったのは、この、なんか適当に入ってしまった大学で出会った恩師の影響だった。
先生は武蔵美の空デを出で建築事務所で働き、静岡の大学で高田修地先生のもとで講師をし、現職にあるらしかった。デザインとはなにか、アートとはなにか、表現とはなにか、考えるとはなにか、すべて先生に教わった。
まわりの学生はとにかくなにもやらないので、それが逆に都合が良かった。付きっきりで教えてもらえることなんて、ふつうはおそらくほとんどないだろうから。 大学の一室で朝から晩まで一緒に制作をした。ビルの裏階段で夜な夜なタバコを吸いながらデザインの話をした。
狂ったように作っていた
朝から晩まで、デザインとアートに浸かっていた。とにかく見て、考えて、作った。
昼も夜もご飯を食べさせてもらった。これまで適当に暮らしてきたツケをここで清算し生まれ変わった。
デザインの基礎
先生は、ひとそれぞれに異なるものの感じ方、捉え方があること。それを感覚の景と呼んでいた。
感覚の景を感じ取る感受性を磨くこと、考え続けること、そのためによく学び、よく見て、よく聞き、よく試すことを教えられた。日々研鑽だった。日常のすべてから、触れるすべての物事から学べるのだと。
デザインとはその微細を捉え、豊かさを構想し、創造力をもって社会に実装する営みのこと。
当時の僕はわかったような、わかっていないような、いやほとんどわかっていなかったけれど、その教えは、ぼくの仕事観を作っていると感じることが最近は増えてきた。製品を作ることは、デザインそのものなのだ。
デザインを教わりはじめた一番最初に読まされた本がある。
創造性とは、クリエイティビティとは、イマジネーションとは、ファンタジアとは。
クラフトの源泉を、発明の根元を見つめる本だ。
毎年一回はこの本を手に取る。
デザインとはなんなのか、まだよくわかっていない。
構想し、実装する
僕にとってのデザインは、抽象と具体が地続きだ。良いものをデザインするのに、どちらも欠かすことができないし、どちらにも責任をもちたいと思っている。
さらにいえば、実装の方法はなんだってありだと思っていて、僕にとってはペンで描くのもキーでプログラミングするのも同列だ。takram がデザインエンジニアという呼び名をつけなければならなかったぐらいにはデザイン観として一般的でないことはわかっているけれど、最近はそうでもなくなってきていると感じる。
最近は少し進んで、構想し、実装する営みを続けることに興味がある。それはつまり経済合理性のあるプロダクトを作るということで、ビジネスやチームに興味があったりする。
もはや職能とは…という感じではあるけども、ぼくはたぶんこれまでもこれからもデザイナーでありつづけると思う。
自由と意力
僕は多摩美の教育理念である「自由と意力」が好きだ。この精神は、美術を扱うものとして常に心にある。
http://www.tamabi.ac.jp/prof/message/freedom_and_will.htm
美大に進学したときに、母は特になにも言わなかった。相談もせずに決めてくるものだから困ったものだ、と笑いながら嫁に話していたのを思い出す。やりたいことをやれているなら良いと思っていたようだった。
3/父になった日
2015 年に長女が生まれた。 その頃はカンムでバンドルカードを考えはじめた時期で、めちゃくちゃに安い給料でどちゃくそに働いていたけど、それにはなにも文句はなかった。25 歳だったぼくは最高のプロダクトを作ることができる環境を求めていたし、いいチームといい課題に恵まれてあの環境はなにものにも替えがたいものだった。
カンム
その頃のことは、こっちに少しだけまとめてある
バンドルカードができるまで
もうただ写真を上げたいだけなんだけど、これがお気に入りだ
achiku
あと、やまきわたるに息子まさるが爆誕したらしい。
めでたい。なんかいらないもの送りつけたい。
脱線したが、話を戻すと、父になったぼくには無限に働く時間を取ることはできなくなってしまった。 子どもを育てることを投げ出すことはあり得なかったし、妻にすべてを押しつける気はなかった。
ぼくの父は子育てのほとんどを母に任せていた。時代もあるのかもしれないし、そういうひとだったのかもしれない。それはよくわからない。それがめちゃくちゃ悪だとか、そういう話ではないし、父と険悪かというとそうではないが、ぼくの価値観とは合っていなかったし、ぼくはそうはならないと決めていて、仕事と家庭を両立させる方法を考えていた。
お風呂と寝かしつけ、食事
基本的にいつも一緒に寝落ちる
結果的に、毎日のお風呂と寝かしつけ、週末作り置きがぼくの父としての役割になった。お風呂の時間は 19 時なので、18 時には退勤する必要があった。 当時はどんなに仕事をしてもしたりないくらいだった。そんななか、18 時に退勤する制約の中でもっとも長く働くには、始発で出勤するというのが答えだった。それから 5 年、ずっと始発出社を続けている。会社の解錠係りがぼくの主な仕事だ。
家事の中で比重が大きいのはなんといっても食事だった。19 時には帰宅して 21:30 には寝る(始発出社のため 4:30 起き)ので、毎日つくるのは物理的に不可能だった。そこで週末作り置きがはじまった。 実はこれは長女が生まれてからではなくて、長女を身篭ったときからはじまっていた。その頃は共働きで外食が多かったので、お腹の子どもを気にして手料理をはじめた。
料理が趣味かと聞かれればそうとも言えるし、とはいえ家庭料理しか作らないので趣味というようなものでもないかもしれない。
つくりおき
母は 3 人を育てながら、働いてもいた。
自分の時間はなく、どれほど大変だったのだろうかと、親になったいま思う。
子どもたちと過ごす日々は、他では得られないであろう幸福と出会う。大変だし、制限されることもあるけれど、ひとりでは手に入らないものがある。こんな幸福を母も感じていただろうかと想像する。 52 歳という若さで亡くなったが、孫を連れてもっとやりたいことがあっただろうと、いつも思い返す。思い出すことしか、できないのだけれど。
夫になった日は書かないのかと妻に言われそうだなあと思いながら書いている。
書くのも疲れたし、たぶんここまで読んでくれた人も疲れたと思う。あとはササッと締めよう。
4/進んでいく日々に
どこかでなにかが起ころうと、だれかの何気ない日々は進んでいく。
従兄弟に子どもができた。 2020 年の 4 月に生まれる予定だ。
妹が結婚することになった。 令和 2 年 2 月 22 日らしい。(あいつ 22 歳じゃなかったか?)
彼氏はめちゃくちゃ良いやつだ。マジメで子ども好き、誠実で明るい。
9 歳も離れているのでおやじの気分になってくるけど、自分の娘もこういういい奴を捕まえてくれたらなにもいうことないのになと思う。
年始に再び集まるようになった親戚たちの団欒は、母が望んでいたものだろうと思う。母が大切に思っていた世界を残せたら、できなかった親孝行に少しでもなるだろうか。
だれかの大切に思っている世界を残すために、なにができるだろうかと考える。
豊かさを構想し、社会に実装すること。
豊かさは、ひとりひとりの心地とともに。
日常の、暮らしと、生活のある、よく晴れた普通の日に。
2020 年 1 月 5 日